こんにちは、saraです。
今回は私が中国文化や中国語に興味を持ったきっかけを思い出してみたいと思います。
タイトルにもあるように両親が芸術家(父は画家で母は彫刻家)なので、親の仕事の量や忙しさにはバラつきがあります。私が小さい頃は母の彫刻の仕事が忙しくて、作品の納期が近くなってくると両親二人共夜中になっても帰ってこないというのが普通の日々でした。
母の作品の多くは鉄やブロンズ、アルミニウム、石などの素材を使うので、溶接や仕上げの作業が遅れたり、納期に間に合わないとなると職人に任せるだけでなく両親たちもグラインダーやヤスリを使って研磨の作業をしていました。
ということで、幼い私は日本に戻ってすぐの三歳からお留守番生活が始まりました。
親も遅くまで帰れないのを気にして、私にお留守番の時に見るビデオというのを用意してくれたりしました。
私は音楽が大好きだったので、マイケル・ジャクソンの映画「ムーン・ウォーカー」や、ビートルズのシュールな映画「イエローサブマリン」、子供向けのクレイアニメなどなど。中にはツイ・ハーク(徐克)監督が製作した幽霊の出てくる映画などもありました。
ちなみに我が家では漫画、ドラマ、雑誌などは「想像力が乏しくなる」という理由で全面禁止で、なぜか映画は見ていいと言われて育ちました。
当時はほぼ毎日のように親の帰りが遅かったので、私はただひたすらこれら数本のビデオを繰り返し見ていました。でも大抵の場合、映画一本を全部見終わるよりも先に自分が寝てしまっていました。
私が小学校になった頃に1キロ離れた友達の家よりも更に近い、子供でも歩いて3分ぐらいの場所に同じ年の転校生がやって来ます。それまではジェニーちゃんやリカちゃんでお馴染みの人形遊びと子供向けの映画しか知らなかった私ですが、東京からやって来たという彼女の家には田舎にしては珍しく変わった漫画やビデオがたくさん置いてあって、うちにある見飽きたビデオよりも面白い物がたくさんありました。彼女の家には当時日本で流行っていた香港のキョンシー(殭屍)映画のビデオがたくさんあって、毎日一本ずつ、学校が終わるとランドセルだけ家に置いてその子の家に通ってたくさんビデオ鑑賞をしていました。(80年代後半)
日本でキョンシー映画の流行が終わって少しすると、また香港からゴールデン・ハーベスト(嘉禾電影有限公司)全盛期のジャッキー・チェンの映画が日本にやってきます。弟と母親はジャッキー・チェンが大好きで、家族団らんで映画を見よう!となると、いつも決まって何度も見たことのあるジャッキー・チェンをまたみんなで見るということになりました。今ではワイヤーなどを使ったアクション映画は新鮮でもないですが、当時は毎回ヒヤヒヤしながら見ていた記憶があります。弟は今でもジャッキーファンで、彼が大学生の頃には試験前になると勉強もしないでずっとジャッキー映画ばかり見ていました。(80年代後半から90年代半ば)
ジャッキー・チェンの日本での絶頂期が終わると、芸術大学の学生など周りの少し年上のお洒落なお兄さん、お姉さんたちの間でウォン・カーワイ(王家衛)監督の映画がかっこいいと話題になってきます。この時代になると大陸出身の監督の作品も日本で大きく紹介されるようになり、チャン・イーモウ(張芸謀)監督、チェン・カイコー(陳凱歌)監督の作品は全国の映画館で上映されるような人気になります。と同時に、香港の中国返還の前後ぐらいからはかつて日本で大流行していた香港のアクション映画や恋愛映画よりも、大陸の人情味溢れる素朴な映画や広大な大地を使った超大作映画などの方がストーリーとしてもクオリティーが高いという評価に変わっていったように思います。(90年代後半以降)
ということで、元々私はただの映画ファンで、映画の台詞が気になって広東語や普通話(中国標準語)の映画の中でのフレーズが載っている本を買ってみたのが中国語学習の始まりです。その時には漢字は読めても意味は全然分からない状態で、でも、日本語字幕で見ていた時よりは映画の意味が分かったような気持ちになれて嬉しかったのを覚えています。
当時の田舎では今のようなアマゾンなど便利なサービスもなく、映画専門書もろくに売っていなかったので、わざわざ神戸の南京町まで買い物に行ったり、渋谷に昔あった香港・中国映画関連書の専門店などに行ったり、10代の頃は少し変わった女子でした。
映画「ヒーロー(英雄)」が出る頃になると、字幕を見て「今の訳はちょっとおかしい・・・」と、違和感を感じるようになりました。かつての香港映画の字幕のほとんどは英語訳を日本語に訳したものがほとんどだったという話を聞いたこともありますが、もしかしたら当時はまだ日本語ネイティブで中国語がよく分かっているような翻訳者はまだ不足?していたのかもしれません。
大学に入って当時全く人気のない中国文学を専攻して、香港へ留学に行き、そこで映画の字幕翻訳のクラスを受講しました。先生は授業中ほぼ広東語しか使用せず、授業で扱う字幕翻訳も広東語から英語、英語から中国語、などで、毎回字幕翻訳の課題がたくさん出る授業にはついて行くのがやっとというぐらい大変でした。
卒論では王家衛映画の主人公のモデルとなったと言われている上海出身の香港在住作家劉以鬯(現在93歳!)の作品とその人生をテーマにしました。新聞や雑誌の編集やコラムニストとして長く活躍し、有名な作家たちがまだ無名だった時代に自身の編集する新聞の文学評論やコラムなどに紹介し、多くの優秀な作家たちを発掘したことでも知られている人物です。彼自身は実験的な純文学にこだわったがゆえに、苦労の多かった作家のようです。
別の大学の教授にも卒論の内容やテーマを相談したところ、映画と文学を一つの論文にまとめるのは難しいだろうと指摘されました。でも、自分は元々映画ファンから始まったというこの「きっかけ」を大切にしたくて、最後までテーマの重要な位置に映画を置くこととしました。
日本にいた頃には仕事の面接などで、「どうして中国語を勉強しようと思われたのですか?」と聞かれる度、上のような長ーいストーリーを話せる時間があれば・・・と思うけれど、映画に対する自分の熱い思いよりももっとアピールすべきことがあると思っていつも端折ってしまいます。
面接の際に話す「別の」理由としては、「近い国なのに、日本では英語やフランス語などの言語よりも圧倒的に翻訳されている本が少ないから興味を持った。」ということにしています。言語を学んだ私でもまだまだ知らない中国の作家や作品がたくさんあると思います。本当にたくさんの日本語に翻訳されていない作品があること、日本では名前すら知られてもいない作家でも素晴らしい作品を残した作家がたくさんいることを思うと惜しいと感じることがあります。
今回は私が中国文化や中国語に興味を持ったきっかけを思い出してみたいと思います。
タイトルにもあるように両親が芸術家(父は画家で母は彫刻家)なので、親の仕事の量や忙しさにはバラつきがあります。私が小さい頃は母の彫刻の仕事が忙しくて、作品の納期が近くなってくると両親二人共夜中になっても帰ってこないというのが普通の日々でした。
母の作品の多くは鉄やブロンズ、アルミニウム、石などの素材を使うので、溶接や仕上げの作業が遅れたり、納期に間に合わないとなると職人に任せるだけでなく両親たちもグラインダーやヤスリを使って研磨の作業をしていました。
ということで、幼い私は日本に戻ってすぐの三歳からお留守番生活が始まりました。
親も遅くまで帰れないのを気にして、私にお留守番の時に見るビデオというのを用意してくれたりしました。
私は音楽が大好きだったので、マイケル・ジャクソンの映画「ムーン・ウォーカー」や、ビートルズのシュールな映画「イエローサブマリン」、子供向けのクレイアニメなどなど。中にはツイ・ハーク(徐克)監督が製作した幽霊の出てくる映画などもありました。
ちなみに我が家では漫画、ドラマ、雑誌などは「想像力が乏しくなる」という理由で全面禁止で、なぜか映画は見ていいと言われて育ちました。
当時はほぼ毎日のように親の帰りが遅かったので、私はただひたすらこれら数本のビデオを繰り返し見ていました。でも大抵の場合、映画一本を全部見終わるよりも先に自分が寝てしまっていました。
私が小学校になった頃に1キロ離れた友達の家よりも更に近い、子供でも歩いて3分ぐらいの場所に同じ年の転校生がやって来ます。それまではジェニーちゃんやリカちゃんでお馴染みの人形遊びと子供向けの映画しか知らなかった私ですが、東京からやって来たという彼女の家には田舎にしては珍しく変わった漫画やビデオがたくさん置いてあって、うちにある見飽きたビデオよりも面白い物がたくさんありました。彼女の家には当時日本で流行っていた香港のキョンシー(殭屍)映画のビデオがたくさんあって、毎日一本ずつ、学校が終わるとランドセルだけ家に置いてその子の家に通ってたくさんビデオ鑑賞をしていました。(80年代後半)
日本でキョンシー映画の流行が終わって少しすると、また香港からゴールデン・ハーベスト(嘉禾電影有限公司)全盛期のジャッキー・チェンの映画が日本にやってきます。弟と母親はジャッキー・チェンが大好きで、家族団らんで映画を見よう!となると、いつも決まって何度も見たことのあるジャッキー・チェンをまたみんなで見るということになりました。今ではワイヤーなどを使ったアクション映画は新鮮でもないですが、当時は毎回ヒヤヒヤしながら見ていた記憶があります。弟は今でもジャッキーファンで、彼が大学生の頃には試験前になると勉強もしないでずっとジャッキー映画ばかり見ていました。(80年代後半から90年代半ば)
ジャッキー・チェンの日本での絶頂期が終わると、芸術大学の学生など周りの少し年上のお洒落なお兄さん、お姉さんたちの間でウォン・カーワイ(王家衛)監督の映画がかっこいいと話題になってきます。この時代になると大陸出身の監督の作品も日本で大きく紹介されるようになり、チャン・イーモウ(張芸謀)監督、チェン・カイコー(陳凱歌)監督の作品は全国の映画館で上映されるような人気になります。と同時に、香港の中国返還の前後ぐらいからはかつて日本で大流行していた香港のアクション映画や恋愛映画よりも、大陸の人情味溢れる素朴な映画や広大な大地を使った超大作映画などの方がストーリーとしてもクオリティーが高いという評価に変わっていったように思います。(90年代後半以降)
ということで、元々私はただの映画ファンで、映画の台詞が気になって広東語や普通話(中国標準語)の映画の中でのフレーズが載っている本を買ってみたのが中国語学習の始まりです。その時には漢字は読めても意味は全然分からない状態で、でも、日本語字幕で見ていた時よりは映画の意味が分かったような気持ちになれて嬉しかったのを覚えています。
当時の田舎では今のようなアマゾンなど便利なサービスもなく、映画専門書もろくに売っていなかったので、わざわざ神戸の南京町まで買い物に行ったり、渋谷に昔あった香港・中国映画関連書の専門店などに行ったり、10代の頃は少し変わった女子でした。
映画「ヒーロー(英雄)」が出る頃になると、字幕を見て「今の訳はちょっとおかしい・・・」と、違和感を感じるようになりました。かつての香港映画の字幕のほとんどは英語訳を日本語に訳したものがほとんどだったという話を聞いたこともありますが、もしかしたら当時はまだ日本語ネイティブで中国語がよく分かっているような翻訳者はまだ不足?していたのかもしれません。
大学に入って当時全く人気のない中国文学を専攻して、香港へ留学に行き、そこで映画の字幕翻訳のクラスを受講しました。先生は授業中ほぼ広東語しか使用せず、授業で扱う字幕翻訳も広東語から英語、英語から中国語、などで、毎回字幕翻訳の課題がたくさん出る授業にはついて行くのがやっとというぐらい大変でした。
卒論では王家衛映画の主人公のモデルとなったと言われている上海出身の香港在住作家劉以鬯(現在93歳!)の作品とその人生をテーマにしました。新聞や雑誌の編集やコラムニストとして長く活躍し、有名な作家たちがまだ無名だった時代に自身の編集する新聞の文学評論やコラムなどに紹介し、多くの優秀な作家たちを発掘したことでも知られている人物です。彼自身は実験的な純文学にこだわったがゆえに、苦労の多かった作家のようです。
別の大学の教授にも卒論の内容やテーマを相談したところ、映画と文学を一つの論文にまとめるのは難しいだろうと指摘されました。でも、自分は元々映画ファンから始まったというこの「きっかけ」を大切にしたくて、最後までテーマの重要な位置に映画を置くこととしました。
日本にいた頃には仕事の面接などで、「どうして中国語を勉強しようと思われたのですか?」と聞かれる度、上のような長ーいストーリーを話せる時間があれば・・・と思うけれど、映画に対する自分の熱い思いよりももっとアピールすべきことがあると思っていつも端折ってしまいます。
面接の際に話す「別の」理由としては、「近い国なのに、日本では英語やフランス語などの言語よりも圧倒的に翻訳されている本が少ないから興味を持った。」ということにしています。言語を学んだ私でもまだまだ知らない中国の作家や作品がたくさんあると思います。本当にたくさんの日本語に翻訳されていない作品があること、日本では名前すら知られてもいない作家でも素晴らしい作品を残した作家がたくさんいることを思うと惜しいと感じることがあります。
コメント
→素晴らしい親です。
面接はしょうがないので、これから上海駐在になるとともに、まだまだ翻訳されていない作品を日本の観客に紹介してほしい!
中国語の本格的な文学を訳すのは相当難しい気がします。日本語と一致する単語がない語彙が豊富にあって、そういう言葉は日本語特有の擬音語や曖昧な表現を使って訳していくしかない。でも、そうすると原作の雰囲気が伝わらなくなる。詩でも韻を踏んでいるかどうかを伝えられないみたいに、いろんな障壁がある気がする。
訳したくなるような運命の作品との出会いがあれば、もちろん挑戦する気になるだろうけどね。笑