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丽江游记(2016)

丽江,曼谷偏西,和中国沿海城市有两个小时的时差。七八点钟不见日落,太阳不刺眼,直接望上去像是盖了层糖纸,透过来的阳光有些虚。天空淡蓝,没有东京的湛蓝好看。两千四百米的海拔,空气稀薄,深吸一口,氧气到肺时有那么点后劲不足。 古镇是这块土地的精华,长宽都不过一公里区域上,有着古老的纳西民宅,密如蛛网的石街小巷,清澈的溪流,连排的客栈酒吧。古城外围住着本地人,高楼林立,炸鸡排烤鱿鱼、OPPO酷派、班尼路佐丹奴,无异于国内任何一座三线小城。再往外,又变成了山间田野湖泊的辽阔美景。 清晨石板街上轻促的脚步,小楼前袅袅的青烟,水道边哗哗的浣洗声,淳朴本然的古城人见人爱。日头高举后,人山人海沿街涌动,游客主宰的古城热闹非凡。往那些幽静的巷道走,为迷途中的一次次偶然发现而惊喜。找一家晒得到太阳的客栈,让有故事的老板告诉你关于古城的八卦。或许你就认同有人说的,只要古城内清水如昔,冬日里暖意融融的阳光仍在,白云依旧笼罩着雪山,屋檐下的生活依然惬意从容,他们,就会再回到这里。 这里没有所谓的景点,游人不必忙于走马观花。慢悠悠地住上几天,放松自我体验悠然。“要么猎奇,要么发呆”是我坚持的旅行原则。见没见过的自然奇观,听不同人的故事,吃得像个当地人,满足自己的好奇心。否则就老老实实坐在长椅上放松发呆,逃离日常琐事给生活以喘息。 我不赞同有些朋友执着走遍全国各省自治区、游列欧洲十数国。这种划清单的功利性把旅行变成上班式的打卡行为。大国的州界和小国的边疆原本就是行政上的划定,征服这种人为管理规则下的疆域,却忽略了大自然赐予的奇观美景,得不偿失。 “住”在了花间堂城东处安静地段,古色古香的,种种原因还给升了套房。服务无可挑剔的,早餐非常一般。据说是花间堂的品牌名声在外,体性价不如同类客栈高,大家可以多家比较入住。 “吃”饭分别去了古城内外点评排名第一的馆子。古城里的是家纳西料理,沿街二层楼,空间略显局促,排了十分钟队,吃了米线烤鱼辣鸡,口味不差。新城的是三层独栋的饭店,吃的是野生菌锅,嫩菇鲜汤很满意。两家老板们都很会待客,点菜时主动引导,整个环节顺畅,换台率也不赖。结账时还会让你点评,殷勤而不过火。 “喝”茶去了游客较少的束河古镇,茶室里有几名云大旅游学院的学生打工。她们一般周末过来,六七块的时薪,能学学茶道,为客人沏茶自己也能品茶。五一长假游客不多,工作轻松,也不太在意工资了。 “行”车基本用
最近の投稿

新しい生活

  9月から仕事をはじめた。通勤にかかる時間は1日2時間。4月に免許を取得したばかりで、仕事を始めるまではほとんど運転した事もなかった。   仕事をはじめて思った事は、結婚して子供ができても自分の仕事は持っているべきと言うこと。家庭に入ったら仕事を辞めると言う人も多いし、それが向いている人もたくさんいると思う。けれど私は違ったように思う。   仕事はやりがいを与えてくれるけれど、ストレスや不条理な事もたくさんある。けれど、家に一日中いて自分の子供以外ほとんど誰とも話さない生活の閉塞感は例えようがない。ママ友も作ろうとしたけれど、それまで東京や海外で暮らしていた私にとっては北陸から出た事のないママたちと意見が合うわけもない。結局、国際結婚をしている友達としか気が合わず、そんな友達はみんな海外に住んでいたりして、なかなか会うこともできない。   自分の可能性を考えた時、可能性のために子供を作らないという女性もたくさんいると思う。けれど、自分自身は子供を作った事は全く後悔はしていない。世界に羽ばたいて活躍するというような仕事をしていくのは少し難しくなったかもしれないけれど、自分のリミットを作ってしまうからそこにリミットができるように思う。もちろん、子供がいる事で独身の頃のようにはできないことも数え切れないほどある。   例えば子供が夜泣きをして睡眠が充分にとれないとか、旅行に行きたくてもなかなか難しいとか。でも、それを不満として抱えるのは良くないように思う。今の子供との時間は他の体験とは全く違う次元のものだと思うし、それは今しかできない事だと思っている。   人の生き方は人それぞれと言うのに、結局みんな同じような生き方をしているように見える時がある。私は他の人と同じような生き方がしたいとは思わない。でも、同じように生きる事の安心感や安定感も子供ができてからは大切な事のように思う。   ここ数ヶ月ずっと考えていた事は自分を裏切らない、自分の持っている感情としっかり向き合う、なぜそう思うのか、なぜこうなったのか、しっかり考えて前に進む。人と違う事で起きる不安は今に始まった事でないけれど、また新たに自分の道を切り開いて行くのは容易い事ではない。自分の人生に責任を持つ事、人生は一度きりなんだし、自分の人生をちゃんと自分のものにできているかを考えて進んでいくこ

大理的生意

/一/ 大理回丽江那天要坐火车,古城叫了辆滴滴去下关火车站。现代伊兰特,白色座套,司机是位回民大哥,身板挺健壮的,两句寒暄后,话匣子就打开了。因为我连续两年都去的中东旅游,这位回教徒的出现让我倍感亲切,再加上信奉古兰经的多讲究干净,车里清洁舒适,所以他说什么,我就都随声附和。 大哥私家车做了半年多,滴滴一般用来接短途,易到主要接长途。他特别肯定易到的市场策略,每一次拉活都有种网游升级打怪的感觉,所以一公里才几毛钱的市内活儿,你用滴滴可能没人接,易到的单子却抢手,司机可以拿来练级。 一年前他还在国企上班,中国电信大理分局工作,负责信号塔铺设。坐办公室的时候,早上八点半上班十一点开始午休,睡上一觉下午两点回来工作,四五点下班。他苦笑着说,每天轻轻松松的,就是钱少一个月才两千多块。 不知是我附和得好,还是他聊到兴致不全盘托出不爽?电信的工作无聊廉价,唯一算得上收入的是他们公司的出差补助,一天有180元,外出一个月比工资还多。他说,信号塔基站的铺设工程有时候一上山就是几个月,吃住都在山上,跟着工程队还有阿姨给烧饭,这每天180元可以纯赚。 搭建个基站也就两三天,大多时候是在山上等待,等器材运过来,等调试人员到位,等天气好转……山上的娱乐也就是几个人打打牌,偶尔有工人带猎枪的,为晚饭添两个野味,云南的菌类也好调剂。总的来说,山上的生活无以聊赖,与世隔绝像是人生修炼。此时我已经跳跃到卡夫卡在四国的山间别墅,那个森林“入口”,走神到村上春树作品中的森林意象。 后来,司机大哥家里有了小孩,孩子妈没母乳,荷兰进口的奶粉近三百一盒,加上纸尿裤什么的一个月两千多支出,一下子就入不敷出了。去年决定辞去国企的工作,开始全职做私家车司机。经历的第一个春节,5天拉到了4000多块。他们回教不过春节,假日期间天天早上8点到晚上11点,过完节钱挣到了,自己也累趴下了。去了医院住五天,医药费花了一千多。他反省以后不能这么干,得悠着来,现在一天做几单,一个月五六千还是有的,他说。 /二/ 大理的街道要宽些,咖啡和私房菜散落在古城里,零零散散的,像是沉闷生活区的点缀。与丽江的小店联排夜夜笙歌不同,悠闲、安然才是引以为豪的大理情怀,丽江的商业气息在这里被嗤之以鼻,无数的大理朋友直言,“丽江?不去也罢!” 可我并不讨厌丽江模式,至少它把老城改造得

Relieve

I think I was missing something for a long time. About what? About me, myself. I lost something inside of me and I could n 't even see what I wanted to be or what I was like... Or maybe I could say ,   so called "my goals" or "my dreams". It sounds like  a  bit childish and selfish, I know that. So I didn't know how to share this feeling  with other people... Anyway, I was so clear about my life before when I was young like 18 or so. Now, I  can barely see  what my life is about , or  what the meaning of my life is ? I couldn't answer that too.  In these   past  few months, I was suffering from many things.  And.... Today, I remembered  what my dream was  when I was young, and I felt that dream is still the same. Because I  haven’t changed , I am me. And what was that dream? It is kinda simple thing. But for me it is very important for  surviving  in this world. I was sick  sometimes ago, and I  have recovered  totally today. But I was thinkin

先生

 先生と私が知り合ったのは、弟が病気をしてすぐの頃だった。私は小学三年ぐらい、先生は三十六歳だった。弟は原因不明の難病と言われ、田舎の病院をあちこち駆け回ったけれど、どこの医者もその原因を解明する事はできなかった。母親は泣きうなだれて失望し、盲学校や障害者施設を見学して歩いて、自分の息子の受け入れ先を探そうとしていた。  そんな折、あの奇妙な病の謎を解いてみせると申し出てくれた医者と出会った。それが、田中先生だった。先生は僕に三日ほど下さいと母に言った。三日後に母が先生に会った時、前回会った時と全く同じ格好をしていたから、きっとあの先生は寝ないで調べていたのだろうと母親は驚いていた。  弟の病気の原因は先生が調べてくれたお陰である程度特定できた。日本での実例はほとんどなく、世界中でも五例ぐらいしか報告されていない病だった。そして、確信のようなものはないけれど、とりあえずこの病気だろうという事で治療を開始するというような旨の話を親たちは聞いて帰ってきた。  入院している弟につきっきりだった母親が一週間ぶりぐらいに帰ってきた。帰ってきたと言っても、私が滞在していた祖母の家だった。祖母は心配して、畳の部屋でなくて自分のベッドで二人で寝たらどうかと提案してくれた。母と一緒のベッドで二人きりで寝るなんて、今までの人生にその一回ぐらいだったかもしれない。母親は普段弟の目の前ではいつも笑っていたのに、私の前では一晩中泣き続けていた。私に涙を見せまいと、私に背中を向けて泣き続ける母に私は何も声を掛ける事ができなかった。  ステロイドを大量に投与するその治療法によって、徐々に多幸感が出てきた弟は食欲も全開になり、いつもニコニコと笑いながら丸々と太った顔をくしゃくしゃにして笑っていた。その頃、同じ部屋の隣のベッドで入院していた男の子が亡くなった。白血病だった。その男の子の親二人は自分たちが病気の息子を目の前にしてどうする事もできなかった無力さを悔しく思っているというような話を何度も母親にしていたようだった。母親はその子供が亡くなって再び塞ぎ込んだ。私の父が母の代わりに病院に泊まると申し出ても、弟は譲らなかった。疲労感の募っている母を弟は離さなかった。父は、何でパパじゃダメなんや!と大きい声を出したけれど、それでも弟は動じなかった。  弟が死んでしまうかどう

みーさん

 いつかあの人の事を書くときがくるのだろうといつもそう思っていた。その人は実在の人物なので実名を挙げることはできないが、まわりの皆からはみーさんと呼ばれている人だ。京都の芸術界の人間で、彼を知らない人はいないだろう。私は彼のことを早く死んでしまえばいいのにとか思うぐらい毛嫌いしているのでこの人生で二度とお目にかかりたくないと思っている。もしも、これを読んでいる人で物好きな人がいて彼に会いたいと思うならば、きっと今日も木屋町・先斗町界隈で呑んだくれているだろうから、ふらふらとそこら辺を歩いている間にバッタリと出くわしたりすることができるかもしれない。  彼はとても才能のある芸術家であると思うし、何より頭の回転が早くただモテたくて始めましたみたいな、普段は女のヒモをしていてその日暮らしの生活をしているというだけの部類の人たちとは少し一線を画しているように思う。もちろん、彼自身はヒモでないかと言われればもちろんヒモの部類に入ってくるだろう。彼には真面目な仕事に就いている奥さんがいて、みーさんに何があっても彼を支えるという献身さでみーさんもこれまで何とか死なずに生きてこれたのだろうと思う。  みーさんの特徴を語るとき、そのユーモアに溢れる会話術を抜いて彼のことを語る事はできないと思う。元々、学力も高く、大学を出てすぐは商社かどこかに勤めていたと聞いた事があったが、それを聞いても何も違和感を感じないほどの体力や知力の持ち主であると思う。彼の体型を見ても、芸術家によくあるようなヒョロヒョロとした病的さはなく、特に顔の色が悪いわけでも猫背でもなかった。黙っている瞬間というのが彼にはほとんどないのだからまずそんな場面に出くわすという事はないに等しいけれど、もしも何も話さず黙り込んでいる彼を見る機会があるとすればきっと普通の役職のあるサラリーマンに見えるのかもしれないと思う。  では、なぜにこうもみーさんが変人なのか、変人になってしまったのか。私は小さな頃よりみーさんに可愛がられて育ってきた。長年みーさんを家族のように慕っていたし、たくさんの良い思い出もある。それと言うのも私の両親も芸術家で、夏になると海を目当てに北上してくるみーさん家族と一緒に海へ行ったりするというのが我が家の定番の夏の過ごし方だったからだ。夏と言えばみーさん、というぐらいたくさんの楽しい思い出を残して

上海油画体验课

“艺术并非高不可攀,零基础一样画得美!” 最近常见这样的宣传口号,面向零基础的小伙伴们,专业老师手把手教,三四个小时完成一幅油画。“零基础”和“手把手”这两句营销用语让人心动,圈都画不圆的我信心倍增。于是周末去探了个究竟。 朋友提前在点评上买了团购券,预约了中山公园的一处画室。说是画室,其实是附近三室一厅的小区公寓,一个前台、一名老师和满座的学生。由于价格比价公道,十几平米的房间塞满了人,其他房间也被安排地“妥妥的”,所以“手把手教”基本上是妄想,全靠自己瞎折腾。后来才明白广告说的“零基础”是指油画,素描零蛋的,人家不管。。。才一节体验课,总不能期待成梵高吧。 课程开始先选画,可以选择自己喜欢的图片或大师作品进行临摹。初学者强烈建议后者,不然仅仅是调出照片中的颜色就会让你受挫。选定对象后在画布上描出大致轮廓,然后就可以一块一块地上色了。技巧是先上背景底色,后勾轮廓和被写物的色彩。体验课大概就教授了这些,中途还有前台小姑娘帮忙挤染料调色。 选照片 学生作品展示 学生作品 就这样涂涂抹抹了一个下午。只要耐心一笔一笔地描,零基础也能有不错表现,绝对是功夫活。闲聊中得知老师是上师大美术系毕业,80后。负责日常教课,画室的推广运营另有他人打理。周末常常是爆满,平日相对清闲一些,教教素描基础班。 画室 我的作品